先祖・長岡藩士、九里家をめぐる旅

2010年5月22日
後日談:千葉の立國寺にて
 新潟旅行出発前に、長年訪れていない先祖の墓を訪ねるにあたり、お坊さん修行のときや法要のときにお世話になっている千葉は養老渓谷にある立國寺の御上人に相談をした。「久しぶりに帰ってくるなら、お寺にも顔をだしなさい」と言われていたので、新潟土産を持って訪れた。ここに行くのは一苦労である。千葉の五井駅から電車が2時間に1本しかない。駅から寺が近いわけでもないが、タクシーもない。千葉も千葉駅を超えると田舎である。
 新潟旅行の報告をすると、「先祖を調べることはそれだけで供養になる」と言われた。なぜかと言うと、「今まで存在が知られていなかった先祖もわかる。先祖がいなければ今の自分達がいない。」からだそうだ。最近、お母様がなくなった友人がいたが、お葬式は無宗教でお坊さんなしで、戒名もなかったそうだ。故人のご遺言だったのことだ。お上人によると、最近は亡くなってすぐに荼毘にふす、というパターンが多くなってきたそうだ。「このままでは、どんどん世の中が悪くなる。」とおっしゃっていた。
 自分も若い頃は宗教など何も興味がなかった。勉強、仕事、遊びにそれどころではなかった。が、挫折や人の死というものを経験していくにつれ、苦しみというものを理解し、悲しみを整理するには、仏教思想が役に立つとつくづく思うようになった。

 4年前に母が亡くなったとき。自宅で亡くなったので、病院で葬儀屋やお寺さんを紹介してくれることもなく、全て自分達で行う羽目になった。自宅でなくなるというのは大変なことで、事件性がないかどうか、刑事さんまでやってくるのである。刑事さんが帰り、葬儀屋を決め、すぐにお上人様に法要を頼んだ。大変、ありがたい通夜、葬式を奥様(副住職)と行ってくださった。それも、修行生割引料金で。先の伯母からは、「よくこんな値段でできたわね!」と驚かれたものだ。伯父がなくなったときは、曹洞宗で、戒名だけでもびっくりする値段だったそうだ。
 残された遺族としては、故人の霊が成仏してくれるよう願うものだ。が、母も伯父も癌で末期は苦しんだので、安らかに逝ってくれたか、その人生に悔いを残さなかったかと心配であった。そして、生前充分孝行できなかったことが悔やまれる。母のお通夜のときそのことをお上人様にうかがったところ、「いや、お母さんは自分で癌ということも(最後まで告知しなかったが)わかっていて、今はやすらかですよ。未練もないですよ。」とおっしゃってくれて、大変安心したことを覚えている。
 伯母の家で聞いた話では、伯父が亡くなったとき、お坊さんが言われたそうだ。「普通は亡くなると、なかなか安らかに逝かない方が多いが、渡邉さんは、亡くなる2日前に悟りを開いたようですね。こんなことは珍しいのだが。」と。伯母が「実は若い頃にお坊さんになるべく修行していた時期があった。」というと、「それで。」と納得なさっていたというのだ。
 また、ちゃんとしたお坊さんというのは、法要のときにありがたい法話をしてくださる。私が22歳の時、親しかった友人が悲しい亡くなり方をして、その若さではなかなか人の死というのを理解できないものだった。が、そのときのお坊様はショックでどうしたらよいかわからない私達に、その悲しみを処すようなお話をしてくださった。こんなことらを考えると、残された遺族にとっても、お坊さんのお経や法話というのはありがたいものだ。
 
 今回の日本滞在ではお寺に4軒行った。巻の小林の先祖の墓がある専福寺、九里の先祖の墓がある栄涼寺、祖母の兄が住職をしてた柏崎の花栄寺、そして師匠のいる千葉の立國寺。お寺に縁があるものだ、と思った。日記に何回か書いてあることだが、プロテスタントの学校を出て、海外生活が長く、英語で仕事をしている私が、キリスト教信者にならず仏教徒であるのは、子供の頃かしみついた日本人独特の文化が家庭にあったからだと思う。祖父母が存命であった頃は、家に仏壇がなかったが故人の写真を飾り、祖母は手書きで戒名を書いた位牌をつくり、花と線香をかかさなかった。毎日、お供え物をして私達子供達もまずは仏様を拝んでから、食事をしたものだ。毎朝、祖母は早起きして法華経をあげ、小林家と九里家の回向供養をしていた。祖母の九里家は浄土宗、祖父の小林家は浄土真宗であったが、祖母はいつの頃からか法華経に帰依したらしい。私が千葉の寺でお坊さん3日間体験修行をしたときに、習ったお経が祖母があげていたのと同じものだったので、気づいた。そこで、宗派を変えるのは先祖に申し訳なかったが、親しくしていたお寺さんもなく、習った方法でこれからも供養をしたいと、私も祖母にならい日蓮宗で供養をすることにさせてもらった。
 特にひどい挫折を味わったり、親や近親者の死を体験していない人は、供養や宗教について考えるきっかけはないと思う。同年代の知り合いと話していても、殆ど法要や供養について殆ど意識をしていない人が多い。が、いつもそういうことを頼っていた親が亡くなると、自分でしなければいけなくなるのだ。私的には、今回の日本滞在では、日本人としての、ついては長岡藩士の子孫である自分のアイデンティティーを認識することができた。今後も先祖のこと、先祖供養、そして仏様に手を合わせることを、大切に考えていきたいと思った。

 この長ーい新潟紀行文を、読んで下さってありがとうございました。海外にいると日本にいては考えることもしない「日本人のアイデンティティー」(新渡戸稲造は「武士道精神」に例えたが)を考えることが多々あります。海外に出る機会があれば、日本人として恥ずかしくない行動を、また先祖のお墓参りなどについて、少しでも考えてくださればありがたいと思います。
2010月5月20日
後日談 1:千葉の伯母宅にて
 花栄寺のご住職に言われた通り、八千代に住む伯母を訪ねることにした。最後に会ったのは、母の葬式のとき、もう4年以上前のことだ。ご無沙汰をすると、更に足が遠のいてしまうのだが、「花栄寺のご住職に言われた」ことをきっかけとし、訪ねていった。久しぶりに見る伯母は本当に変わっていない、もう74歳というが、とても若々しい。が、足が悪くなったりで週に数回は病院に行くそうだ。子供の頃、一人で1週間こちらのお宅に泊まりにきたことがある。実家は7人家族でにぎやかであったので、こちらのきれいで静かなお宅が大変居心地がよく、帰りたくなく居座ってしまった。今思えば本当にずーずーしい子供であった。そんなことも思い出された。
 さて、居間に通されると、血は繋がっていなくとも、伯母というのはありがたいものである、私が子供の頃から大好きなちらし寿司などのごちそうを準備して待っていてくれた。私の座ったすぐ横には仏壇があって、まずは伯父に手を合わせようとした。伯父の写真の隣りに昔の写真だが、大変ハンサムな青年の写真が飾ってあった。もしやと思って聞くと、伯父・信栄の実の父、つまり祖母の早世した最初の旦那であった。祖母はその後私達の祖父と結婚して孫が3人できたので、この最初の旦那のことは祖父に遠慮していたのであろう、お祭りしていなかった。なので、写真を見るのもはじめて、その人が渡邉徳三という名前だったことも初めて知った。それにしても、現代にも通じるあまりのハンサムぶりにびっくりした。ジャニーズのタレントと言われてもいいくらいだ。祖母は私が生まれた頃から、年格好がおばあちゃんであったが、そのおばあちゃんにも、こんな素敵な旦那を持ち、女の時代があったのだと祖母の違う一面を知った気がした。祖母からは、最初の旦那は同じ士族の出であると聞いていた。そういえば、今回家の整理をしているときに、古い写真が出てきた。昭和50年代後半から60年頃の写真と思われるが、九里のものでも、小林のものでもない見慣れない丸いお墓が映っていた。祖母とその息子である伯父や我が父も一緒だったので、何かの機会に車で柏崎の渡邉のお墓にお参りに行ったことがあったのだろう。祖母らが生前、お参りする機会があって本当によかった。伯父は後継ぎなく亡くなったが、伯母がちゃんとこの伯父の父のことを供養してくれていた。ありがたいことだ。
 伯母が毎年注文しているという、貴重なボジョレーヌーボーを開けてくれ、乾杯をした。その後は、おそらく伯父、母、祖父母、柏崎の和尚など来ていたのかもしれない、懐かしい話に私も伯母も涙がほんとうによく出てきた。子供の頃、さんざんお世話になったくせに、体が弱ってきて寂しい親戚を、まだ若い私達が自分の忙しさにかまけて無沙汰をしていたとは、なんと申し訳なかったか。今後は、日本に帰るたびにお邪魔をさせていただくことを約束した。

 今回、柏崎のSさん宅を訪れたときに、Sさんのお母様が亡くなる10年前に残されたという、手書きの家系図をコピーしてくださった。それにより、私の10代前までの九里家の当主の名前がわかった。皆、「信」の字がついていた。戊申戦争後、貧乏士族となったとも、長岡藩士の九里家の子孫である誇りは持ち続けていたのだろう。柏崎の祖母の兄の和尚の名前は好信、祖母の息子であった伯父の名前は信栄。曾祖父文一郎も、祖母も自分の長男に「信」の字をつけていたのだ。高祖父・番右衛門のもう一つの名前は信正であった。よくわからないが、家督をつぐべき長男(本家になる)だけが、そういう名前をつけられたのか?が、Sさんによると、昔は幼名と大人になってからの名前があったというので、二つ名前があったのかもしれない。文一郎の名前はこの一つしか知らないが。
 前にも書いたが、九里のことは妹、弟は全く知らず(おそらく母もあまり知らなかった)、私だけが小さい頃から九里のことを気にしており、この年にしてようやく再び墓参りに行き、先祖のことを調べたいと思ったのだ。このことを伯母に話すと、「きっと、おばあちゃんは、九里のことをあなたに託していたんでしょう。」と言われた。祖母は、士族の娘であったし、雪国の我慢強い、思いやりのある、我儘を言わない、温厚な人であった。むしろ、妹がこの性格を引いている。私はむしろ、書くことが好きで、勉強熱心、疑問を抱けば調べずにはいられない、祖父の血を多く引いていると思っていた。皆、そう言う。
 祖父・十四三は11人兄弟であったが、自分一人だけ父親が違った。次男以下は、この曾祖父の弟が曾祖母と結婚してできた子供だ。なので、祖父は若い頃は優秀であったものの、他の兄弟に遠慮していたそうだ。そして、家督を下の弟に譲り、自分は実家をつがず、東京に出てきた。巻にいたときは、町議会議員や、蒲原タイムスという新聞社を自分でやったりしていた。新聞記者をしていたのと、目がわるかったので、戦争にいかずすんだそうだ。弁護士になりたかった時代もあるようで、日大の法科に通ったこともあったそうだ。が、苦学生では難しかったようだ。東京に出てからは、代議士秘書や校正の仕事、リタイヤしてからは、町内会長を長くつとめ、地元のインフラ整備に努めた。代議士秘書時代には田中角栄からの年賀状も来ていた。同じ中越出身で同年代、角栄のことは好きだったのか嫌いだったのか、ついぞわからなかったが、常に意識をしていたようだった。町内会長時代には、我が家に市会議員、県会議員の先生がよく来ていた。また、よく市議会などにも出かけていた。町内を流れるどぶ川が大雨になるといつも氾濫するのを苦慮し、かけあっていたのだ。そして、ついに私が小学校高学年ごろになり、町内に下水が通り、床下浸水の心配からまぬがれた。
 こんな祖父より私はいつも勉強を教えてもらったりしていた。祖母はどちらかというと、大人しい妹をよくかばっていた気もしたが、九里のことは私に託してくれたのかもしれなかった。が、子孫がいない私には、子供の頃から持っていた「親戚の少ない九里の家を再興したい」という夢も絶える。が、継之助も子供がなく亡くなったし、この情熱は私の代で終わりでもよかろう。せめて、これからは長岡藩士の子孫であることを矜持として、武家の子女らしく、パラオでも長いものにまかれることなく、正しく生きていきたいと思った。
前列左より
ハシモトさん、あちき、シマダさん
後列左より
コグレさん、ミッシー(JIVE)、エルシー(JIVE)、
テシマさん、ユミ(JIVE)
 悪天候が去り、最近晴天続きのパラオです。お客様も増え、お陰さまで忙しい日々を過ごしております。
 そんな折、「新潟・長野で大地震」のニュースが。数年前、大きな地震が新潟を襲ったばかりではないですか。ようやく復興の兆しが見えてきたときに、あんまりだー!
 新潟、長岡や弥彦近辺の親戚に、日本にいる家族が連絡を取ったところ、無事ということで少し安心しました。が、NHKで見る被害地の方々のご心労やご不便はいかばかりのものかと思われます。
 私自身は新潟に住んだことはありませんが、母方の先祖の出身地が新潟なので、新潟のことを思うと郷愁の念にかられます。新潟御出身の方の言葉を聞くと、懐かしい祖父母や叔父、叔母らのアクセントと同じで心地よく思います。思えば、戊辰戦争の時には西郷隆盛の軍に攻められ、第二次世界大戦では空襲にあい、殊に長岡はなぜもこんなに打撃を受けなければならないのでしょうか!?
 長野には中学の修学旅行でお世話になりました。(木曽のお六櫛の工房にうかがいました)海外にいて、仕事をほっぽりだして駆けつけることもできない私は、せめて多少なりの義援金を送ることしかできません。

 一日も早く被害地の方々の生活に不便がなくなりますようお祈りします。
 
2007年9月の日記
2010年5月:出発前
きっかけ
 歯茎の腫れがひどくなり、日本に歯科治療で帰ることにしたある日の朝、「こんどこそ、九里の墓を訪ねて長岡に行こう。」とひらめいた。九里(くのり)というのは、母方の祖母の家で元長岡藩士の家系であった。生前は同居していた祖母(平成7年没)が、私が小学高学年の頃、よく自分の生家である九里の話や、戊辰戦争前後の長岡藩の話、「峠」の主人公になった家老・河井継之介の話をしていた。が、その話を今になって妹、弟にすると彼らは何も記憶がない。歴史に興味があった私にだけよくしていた話のようであった。

 長岡藩は幕末には7万4千石の小藩であったが、後に山県有朋などをして「長岡を落とさないと戊辰戦争は終わらない」と言わせたほど、最後の武士として義理を通して戦った。現在は、どこもかしこも龍馬ブームで、それにあやかって薩長の有名人達がよく取り上げられている。薩長に責められた藩の末裔の者としては、この官軍ブームは複雑な心境だ。昨今は、与党や首相が責められる風潮にあり、龍馬のように「新しい日本を創造する」べく尽力した人がクローズアップされるのかもしれない。が、越後の小藩において、負けては賊軍の汚名を着せられた人達の中にも「戦争をせずに新しい日本」を創造しようとした人達がいたことを、知ってほしい。(だから、河井継之介を有名にしてくれた司馬遼太郎はすごい) 子供の頃より、この明治維新時の長岡藩の話を思うにつけ、なんとも言えない郷愁の気持ちにかられるのだ。

 明治39年生まれであった祖母は、戊辰戦争後、没落した士族の家に5人兄弟の末っ子として長岡に生まれた。名前は留野(トメノ)。「もう、子供は5人で十分だ、留めてくれ。」ということで名付けられたそうだ。新潟で一度結婚して一男ができたが、旦那が死亡、父親より「コブつきは再婚できない」と言われ、この一男を柏崎のお寺の住職をしていた兄のところに養子にだした。その後、和裁で身をたて、東京では関東大震災にあい、その後新潟の巻出身の祖父と結婚、一女(母)をもうけ、そして私達孫3人が生まれた。私達が育ったのは、千葉県船橋市であるが、当時は上越新幹線もなく、足が悪く遠出はできない祖母は、「九里の親戚に会いたいがどこにいるかわからない、そして親戚は少ない。」と言っていた。祖母より高祖父(ひいひいじいさん)からの家系を聞き、小学生であった私はちゃんとメモに残していた。子供心に私達が最後の子孫ではないか?と思っており、長ずるにいたり「先祖の墓」のことについて常に心に引っ掛かっていたのであった。先祖にしたら、「遠くに住んでいるから、墓参りができない。」は通じないのだ。そして、祖母の願いでもあった疎遠になってしまった九里の親戚を探したい、そしてどんな家だったのかを知りたいとも思っていた。そうすることが、祖母の供養にもなると良いとも思った。
 その後、ネットなどで調べたりするうちにわかってきたこともあった。が、そのときにはすっかり九里オタクになっていた私であるが、祖父の小林方の親戚も久しぶりに訪ねて、墓参りもしたいと思った。我が家は祖父母と同居していたので、核家族で育った人と比べると、祖父母という存在が極めて身近であったし、また両人とも辛抱強く、立派な人であった。生前もっと孝行できなかったのが悔やまれるし、その祖父母の先祖をたどり、できれば供養をするのは、子孫として至極自然なことと思える。祖父母と同居していたときは、大家族でゆっくりできないなどと、子供心に我儘な気持ちはあったのだが、この年になってみると祖父母から色々な話をきけて、また教えを請うことができて本当に良かったと思える。現代は実際甘やかすだけの祖父母もいるようだが、そうでなければ祖父母の同居というのは、人間形成においてありがたいことだと思う。

 九里については知っていることは、祖母から聞いた話しかない。また、ウィキペディアによると、長岡藩で九里家は山本家同様、何軒かあったらしいので、どの九里かわからない。本当かどうかはわからないことも含め、知っていることは以下のこと。
・九里の先祖は佐々木高綱(清和源氏)
・三河時代からの牧野氏の家臣。何かの戦いで功名(一番弓か、一番槍か、一番馬)をたて、九里の名前を殿様から賜った。
・戊辰戦争の末期、私の曾祖父にあたる文一郎は当時7歳。下女らに手を引かれて会津に逃げた。
・戊辰戦争後は没落して苦労した。当時当主で会った番右衛門(私の高祖父にあたる)は、商人と一緒に蔵をたてたりしたが、武士の商法知らず(祖母の弁)で、だまされ蔵を取られてしまった。その後、下駄屋などをやる。
・文一郎の兄であった健三は西南戦争のとき、長岡の仇、西郷憎しと鹿児島まで行き戦争に参加。が、足に被弾し後に博徒の大親分になった。

 さて、前置きが非常に長くなってしまったのだが、雲をつかむような先祖の墓参り&歴史めぐりの旅を決心した私であったが、先祖のお導きがあったのか、出発前にキーパーソンとなる人に、パラオにいながらネットを通じて知り合うことができたのだ。

 まず、今回の旅の目的と懸案事項は以下の通り。
・長岡の栄涼寺(えいりょうじ:歴代の殿様の墓と藩士の墓がある寺)に行き、九里の先祖の墓参りをする。が、20年も行っていないので、墓自体があるかが心配。また、先の大地震で墓が倒壊していないかも心配。(昔の記憶では、立派な石碑のような墓であった)現在の船橋の実家が法事などで世話になっている千葉の立國寺の御上人に相談してみたところ、「10年以上も墓参りしておらず、親戚もいないとなると、既に無縁仏として片付けられ、墓がない可能性がある。またその間の檀家代も請求されるかもしれない。」ということで、びびった。。。
・九里の歴史を探る。が、どういうところにいけばよいか皆目見当つかず。
・祖父方の巻の親戚にも久しぶりなので、ご挨拶にうかがいたい。

 ネットを調べていて、手がかりをくれた人と知り合う。
・柏崎の歴史研究家、K先生:
たまたま九里の先祖の一人(武士から侠客になった九里健三)に言及してた先生のブログの記事を発見し、コメント書いたところ、お返事をいただいた。K先生は、長岡の河井継之助記念館の理事をなさっているとのことで、記念館を訪れて歴史にお詳しく著書多数な館長さんを訪ねるとよい、と記念館にご連絡までしてくさった。また、存在も知らなかった九里健三のご子孫の方をご存じで、ご紹介くださった。その後も会合で九里の名前を見たことなど、ご報告くださった。
・柏崎のK寺の副住職様:
祖母の兄が生前、柏崎の寺の住職をしており、子供の頃、私も何度か遊びに行ったことがある。お寺のおじさんと呼んでいた和尚のことを懐かしく思い出すことが多々あり、是非お参りに行きたいと思っていたが、場所がわからず、ネットを検索していた。すると、このお寺の副住職という方に行き当たった。どうやら同年代ぽいので、それを良いことに彼を頼ってお寺に行くことにした。

2010月5月14日
東京から新潟へ
 出発前日、海外から急に訪ねていっても不信がられるのではと思い、親戚である人達にみせようと、昔のアルバムを引っ張り出して探した。現在、実家は既に両親は死に、弟が一人で暮らしているため、ほこりだらけですこぶる汚い。祖父母や九里家の人々と思われる写真が貼ってあるアルバムを見つける。我が祖父、十四三(としぞう)は非常に筆まめで、何事にもしっかりした人であった。長年、地元の町内会長をつとめた。ちゃんと時系列順に、そしてコメントなど付してあるアルバムや旅行記などが残っていたのは祖父のお陰だ。自分の赤ちゃんの頃のアルバムもみつける。我ながら、小さい頃は本当に可愛かった。(が、今はこんなになってしまった。)母のコメントが写真の添えられいた。「オレンジジュース、豆腐を好む。甘いものより、せんべいなどショッパイものが好き。」三つ子の魂百までとはよく言ったものである、今の好みと何ら変わらない。こういった自分の小さい頃の写真を見るにつけ、愛子様がお生まれになった雅子様のコメント「生まれてきてくれてありがとう。」を思い出す。この世に生れて来て、そのときだけでも両親、祖父母を喜ばせてあげたことを、おこがましくも誇りに思った。 
 
 出発前に船橋から新潟への新幹線の往復チケット、レンタカーの手配は済ませておいた。新幹線チケットとレンタカーの組み合わせで、チケットが割引になるJRのトレンタ君はお得でおすすめである。旅の同行者は弟。彼とは正反対の性格なのだが、車の運転をしてくれるのでありがたい。東京駅で訪ねる人々へのお土産を買いこみ無事新幹線に乗り込んだ。新潟までは2時間ちょっと、こんなに近いのに今まで無沙汰をしたことが反省された。そして、新潟が近づくにつれ、いてもたってもいられない懐かしい気持ちになった。やっと来た、と涙がでそうになった。きっと私だけではない、亡くなった母、祖父母も一緒についてきているのかもしれない。そして、先祖から流れる血がが新潟を懐かしんでいるのかもしれない。私自信は生まれも育ちも船橋、新潟に暮した事はない。

 新潟駅に到着。そこぶる寒い!JRのレンタカー屋さんはとても親切で、土地カンのない私達に懇切丁寧に伯父(祖父の弟)の家までの道順を教えてくれた。この旅行中に思ったことだが、新潟の人は本当に親切、世話好きな気がした。

 午後14時:伯父宅
 関東で言えば高速道路のようなバイパスを走ること40分、新潟市内中島にある、祖父の末の弟であるおじさん宅を訪れる。道路がこんなに立派で便利なのは、田中角栄のお陰だろう。このおじに最後に会ったのは4年前の母の葬式のとき。おじさんには、祖父母、母の葬式と親族代表でありがたい立派なスピーチをいただいた。よって、今でも小林家(実家)の家長と思い敬っている。85歳になられたそうで、杖をつかれていた。が、相変わらず頭脳明晰、お元気であった。おばさんとは初めて会ったと思うが、明るい方であった。祖父母の昔の話などを聞く。おじは学生の頃は祖父母宅に下宿していた。祖母を本当のお母さんと思っていた頃もあるようだ。カレーが大好きで、弁当にカレーを入れてくれと祖母によく頼んだそうだ。そんな子供が大きくなったような、少年らしい風貌で、現在は新潟のサッカーチームのファンであるという、モダンなところもある。小林家の先祖の墓に参りたいというと、先に亡くなった母のいとこの家の近くなので、そこのおばさんに案内してもらうとよいとうかがった。
 こちらが急に訪ねて行ったのに、母へのご仏前をいただいてしまい恐縮した。
 
 午後16時:伯母宅
 小林の本家筋で、母のいとこであった亡くなったおじさんの家を訪ねる。このおじは母と同じ年であり、昔の母の写真を見るといつも一緒に写っていた。とても仲がよかったのだろう。仕事は表具屋をしていた。職人であったが、いつもニコニコ、お酒を飲んでいた姿を思い出す。仲のよかった従兄というのは奇遇なもので、おばさんの話をうかがったら、どうも同じ時期に癌の闘病生活をし、母に遅れること3ヶ月後に亡くなったそうだ。母の葬式には入院中とのことで、心配をしていたのだが。こちらは大変な時期であったので、さっぱり存じ上げず申し訳なかった。お線香をあげて、昔話に花が咲く。
 後に、おばさんに道を教えてもらって小林家の先祖の墓に行く。が、この墓が区画整理にひっかかり、本家が勝手に墓を統合してしまったという話だ。先の伯父はそんなことを言っていなかったが、どうやら心中穏やかならずことで、口にしなかったのだろう。今まで、こちらが本家と思っていたのが、実は分家扱いで、祖父の父の代にどうもドロドロした事件があったようだった。
 伯母からは、こちらが急に訪ねて行ったのにお土産をいただいた。パラオに帰ってからあけてみると、懐かしい「岩室せんべい」であった。やさしい味のするこのせんべいは、我が家の定番新潟土産であった。この煎餅をどこかに売っていないかと思ったのだが、時間がなく探すことができなかった。が、ちゃんと伯母がお土産にもたしてくれた。あまりの懐かしさと、おばの優しさに泣けそうになった。。
 
 夜:弥彦泊まり
 まずは、1日目の用事を終え、巻から弥彦の宿を目指す。母と弥彦神社に来たことがあり、弟も行ってみたいと言っていた。宿に荷物を置いて、近所の割烹吉田屋さんへ。るるぶで調べておいた店だ。現地の名物や人気のイカメンチ、わっぱ飯などを食べる。付きだしに、祖母がよく作ってくれた魚の煮こごりが出た。寒いので熱燗。その後、近所のスーパー銭湯に行く。夜は弟のいびきに苦しめられた。

2010月5月15日
弥彦から長岡へ
    
おいしかったやひこ荘の朝食      昔、母とも訪れたし、添乗でも来たことのある懐かしい弥彦神社

 朝は、宿の温泉に入った。食事は、大変おいしかった。これで、一人5千円でお釣りが来る宿、「やひこ荘」であった。まずは、弥彦神社にお参りをした。新鮮な緑の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。ここで、懐かしいものを発見した。子供ころ、あまりに私がおいしい、おいしいと食べるので母がわざわざ取り寄せてもくれた銘菓「雲隠れ」−黄身あんをマシュマロのようなふんわりした生地で包んであるーを神社の近くで発見。もう一度、食べたいと思っていたのでよかった。本店は吉田町とのことだった。
 この日は長岡経由で柏崎を目指す。出発前にもお世話になったK先生が理事をしておられる「河井継之助」記念館に行き、時間があったら先祖の墓がある栄涼寺へ、そして午後は柏崎の会ったことのない親戚の家を訪ね、夕方K先生を訪ね、長岡に戻り泊る予定だ。

 朝10時半 河井継之助記念館
 出発前に継之助について少し勉強したので、偉人の記念館に来るのは感動である。ここでは、K先生の紹介でK女史を訪ねるように言われていた。まず、ガイドさんについて館内を回る。だいたい、内容はすでに知っていたことが殆どであったが、継之助が書いた官軍参謀への建白書を一読したときは、涙が出そうになった。殿様から全権を賜り、長岡と日本のことを思う継之助が書いた必死の内容であった。今回の滞在中に、先祖が住んでいたあたりをぶらぶら歩いて、雰囲気を感じたいという希望があった私は、ガイドさんに藩士が多く住んでいた場所を訪ねたら、拡大地図が館内に展示してあった。そしたら、見つけたのだ!高祖父「九里番右衛門」の名を。継之助記念館のある継之助の生家より、ほんの4,5軒先であった。K女史によると、現在はスーパーになっているとのこと。K女史は親切で、九里が載っている資料などを無料でコピーしてくださり、海外から来た私に何かと話しかけてくださり、大変親切な方であった。
 その資料によると、古文表現なのでよくわからないが、番右衛門は、殿様にきたご進物を改めたり、江戸詰のこともあったようである。館長さんにも会うように、K先生から言われていたが、館長さんは大変お忙しく、その日も取材で関係者を案内されていた。館長さんからは、「九里さん、ちょっと待っててね。」と言われたが、結局時間がなく、お話をうかがえず残念であった。ここでは、夫の実家の姓である菅原ではなく、九里となった私はちょっと嬉しかった。
 さて、ここで今回の旅の白眉とも言えることがあった。なんと、現代の牧野家の殿様にお目にかかることができた。殿様は、現在のご当主であられるが、K女史によると、長岡市長がいても何も言わない市民が、ご当主を見かけると「殿様」とお声をかけるそうだ。長岡では、当時の藩意識がまだ色濃く残っているとのことで、つながりを大事にしている。お殿様も藩士の子孫を気にかけてくださっているとのこと。そのお殿様が翌日の柏友会(長岡藩士の末裔の会)の準備で、記念館にいらしているという。
 お殿様が会議室から出てきたところ、K女史(女史とはいっても、お若くおきれいな方であるが)が、「この方、海外から来た九里さんの子孫です。」とご紹介してくださった。殿様から「明日、こういう会(柏友会)があるから、よかったら来なさい。」とお誘いを直々にいただいた。
 祖母から聞いた話では、九里家は牧野氏が三河武士だった時代から、家来であり、三河から一緒に長岡にやってきた、と聞いてことがあった。殿様にお会いできたことは、光栄極まりないことであった。もちろん、継之助記念館友の会の会員にもなった。

 昼 柏崎・フィッシャーマンズ・ケーブにて昼食
 気持ちのよい海岸線をドライブし、柏崎を目指す。昼は断崖の上に立つレストランで、ちらし寿司をいただく。もっと、ゆっくり海産物などを見て回りたいが、次のアポがあり、省略。

 14時・九里家親戚・Sさん宅
 柏崎に来るのは実に何十年ぶりだろうか。田舎のイメージがあったが、駅前などはだいぶ開けていた。午後は、このHPでも数回名前の出てきた侠客「九里健三」のご子孫のSさんを訪れる。このSさんを紹介下さったのは、くだんの歴史研究家のK先生であった。河合継之助友の会で、ご一緒しているらしい。Sさんには、パラオからまずはお手紙を出しておいた。
 Sさんの曾祖父にあたる九里健三は、「西南戦争時に、戊辰戦争での長岡の仇として、鹿児島まで戦いに行き、足に被弾。後に、足は義足となり、これではまともな仕事には仕事につけないと、ばくち打ちになった。長岡の花火大会の音にまぎれて、ばくちを打っていた(全て祖母の話による)。。。」この健三については、他にウェブ上でのサイトもあり、内容は祖母に聞いていたのと同じであり、九里では一番の有名人ではないかと思う。健三は私の曾祖父「九里文一郎」の兄にあたる。高祖父「九里番右衛門」が、戊辰戦争時の当主と聞いており、健三はその長男、長女がいて、文一郎は次男で、末に鑒也(祖母からは勘也と聞いていたが、Sさんに伺ったら鑒也だという)がいた。
 健三は個人的には興味深いキャラクターである。戊申戦争の仕返しにわざわざ鹿児島まで行って、その後はばくち打ちの人生、ある一家の親分にもなったそうで、あっぱれな人物だと思う。後に健三のお墓にも参ったが、戒名に「誉」の字が入っていた。まさしく、彼の人生をあらわす文字と言えるのではないか?(この誉の文字は曾祖父母の戒名にも入っている)
 さて、Sさん(この家の奥様)とはじめて会うが、血がつながっているせいか、初めての感じがしない、とても感じのよいお上品な方であった。コーラスがご趣味とのことで、とても清々しいお声をなさっていた。聞けば、母より2歳年上であった。Sさんのお母様のお名前は祖母から聞いたことがあり、Sさんによると我が祖父もSさんのお父さんと昔の文学青年同志よろしく、気があって文通をしていたという。そして、母の兄である伯父も昔こちらのお宅に下宿していたことがあったようだ。が、その後全く音信がなくなってしまったのだった。Sさんのお母様は、大正4年生まれで、10年前に90歳を超えて亡くなられたそうであるが、彼女の一生を支えたのが、「武士の娘である」という矜持だったとのこと、感慨深いお話であった。Sさんが、ご親切に30年前に九里の先祖の墓参りをしたときの写真をコピーしてくださった。ここに、このお母様も載っていらして、昔の女性教師のような凛とした印象の方であった。祖母の兄で柏崎の寺の住職をしていた好信(こうしん)和尚も映っていた貴重なものだ。この写真に写っていたご子孫の方(曾祖父文一郎の末弟の末裔)の方が今は本家の墓を守ってくれいるらしい。出発前は、もしかしたらもう墓がないのでは?と心配していたのだが、ちゃんとお守りしてくださった方がいらっしゃり、良かった。(この方達の存在は知らなかったのだが)
 Sさんのお話によると、長男であった健三が西南戦争で傷痍軍人となってもらった金も博打で食いつぶし、親の墓が建てられなかったため、3男の鑒也(祖母の話では写真館をしていた。なので、写真館でとった古い写真が我が家にも残っていた)が本家となり、親の墓を建てたそうだ。兄が武士から侠客の親分となった他の武士の息子達はどういう気持ちで兄と接していたのだろうか。興味があるが、とっくに曾祖父は霊界の人だ。
 昔はお世話になり、行き来もあったのに、おそらく母の代になり、全く交流がなくなってしまったのだろう。今後もよろしくしていただきたいと、記念写真を撮らせていただき、Sさん宅を後にした。おしかけていった私達に地元のおいしいお餅のお菓子をくださり、帰ってから祖母に「おばあちゃんが話していたSさんの娘さんからいただきましたよ。」と仏壇に供えた。

 16時:歴史研究家、よろず相談家のK先生宅
 K先生はいわば今回の旅のきっかけをつくって下さった方と言ってもよい。前述の通り、先生のブログに書き込んだところ、Sさんをご紹介してくださったり、九里の情報を教えてくださったりした。ブログには、体の調子が悪いことがあるとあったので、どうしようかとも思ったのだが、快諾をしてくださったので、ご挨拶に伺うことにした。先生に是非飲んでもらおう、と体に良いと言われるパラオ産ノニジュースを持参した。
 K先生には、色々と長岡、柏崎、新潟の歴史、偉人に関するお話を伺った。本職はコンピューター技師と翻訳家とのことで、歴史に関しては元々は門外漢、そしてご出身は広島だそう。なので、むしろ違った観点から歴史に切り込んでいけるのだろう。新潟の人は、親切だし、お世話好きという印象を話したところ、新潟は元々小藩がたくさんあり、領地が複雑に入り組んでいたので、人の交流が盛んだった。なので、来る者拒まず、客のもてなし方がうまいコスモポリタンと言えよう、とのことであった。普通、雪国の人は夫の郷里の岩手の人のように口が重い、排他的という印象があるが、新潟の人はこちらが新潟に先祖や親戚がいるせいもあろうが、色々教えてくれ、気遣ってくれる、話好きという印象を持った。
 先生のモットーは、「歴史は人をつなぐ」だそうだ。また、色々ご研究を進めるうえで、他人より知識を得ることもあろうが、そのときは、「六地の隔たり」−6人にきけば、誰か知りたいこと、人につながりがある人に当たるーとのことだそうだ。
九里に関しては、先生より以下のことを聞いた。
・三河時代から牧野家(長岡藩主)についていて、おそらく第三代目の手がついたご落胤の家系だろう。(九里にご落胤の家系があるのは知っていたが、家がそれと知らなかった)なので、三河から出るときは、少し問題になったのでは。
・身分的には上士であった。戊申戦争時はおそらく河井継之助隊(筆頭家老)か、山本帯刀隊(青年家老。会津にて敵に捕まり降伏を拒否して斬首された。後に山本五十六が後に養子に入り、家名を再興。)に入っていただろう。今後は隊長名簿などを調べたらどうか。←(後に中島欣也著の「戊申朝日山」を読んでいた時、『九里隊の隊長は足痛のため指揮を取れず、山本帯刀大隊長がこの隊の直接指揮を執った』という記述があったので、これが先祖の九里では?藩の勤王派の中に九里磯太夫という人がいたようだが、この人の名前は祖母などから聞いたことがないので、こちらの九里ではないと思うが)
・九里は武術の家だった。(Sさんからは高祖父・番右衛門は槍の指南番と聞いた。祖母からは三河時代にある戦いで、一番馬か一番槍の武功をたて、殿様から九里の姓を賜ったと聞いていた。)長岡藩は神道無念流(新撰組の大志なども)の系統であるので、門人表などみると今後何かわかるかも。
・ご落胤の家系で殿様とは近しかっただろうから、戊辰戦争では函館まで行ったのでは?長岡が落ちた後、長岡軍は仙台組と函館組に分かれたが、殿様は函館まで行った。
・長岡が落ちた後、藩士やその家族は会津を目指したが、福島の只見村の宿場台帳に九里○衛門と家内6名の資料を見た。おそらく、○衛門は番衛門の可能性あり、歴史からすると終戦は米沢で迎えたかもしれない。→米沢の上杉家は受け入れを拒否。
(祖母からは戦争当時、曾祖父文一郎は7歳で手を引かれて逃げた。が、会津のほうが戦闘がひどいと知り、引き返してきたーいつどこでかは定かでないがーと聞いている。文一郎は5人兄弟だったので、家内6名に合致する)。この資料は、K先生が継之助記念館友の会の総会で、会津の人が持っていた資料をわざわざコピーして見せてくださった。
・西南戦争当時は、鎮圧のために「警視庁抜刀隊」が組織された。よって、健三が従軍したのは元警察官からだったのではないか?(興味深いことに、侠客の兵隊も戊辰戦争で薩長と戦ったということだ)
・西南戦争後は、長岡は荒れて、知り合い同士あつまり、チャンバラと酒飲みが横行する時代があった。健三もそんなことで侠客になってしまったのでは?が、武士から侠客になるとは相当覚悟があったといえる。

 K先生からは、ここに書き入れないほど、周囲の歴史、民俗の話を聞いた。歴史に興味のない弟はさぞかし退屈していると思ったが、先生のお宅を辞して車に乗ったとたん「すごい話がおもしろかった!」とのことであった。以前、お世話になった人に雰囲気が似ているとのことであった。また、「健三のことを良く言う人と初めて会った。」とのことであった。

 夜:長岡泊
 感慨深い出会いがあった日の宿泊はようやく先祖の地、長岡。泊まりは大浴場と朝食がついていて最近ちまたでも好評な「ルートイン」。宿に入る前に、今回の一番の懸案であった栄涼寺の先祖の墓を下見に行った。本格的なお参りはもう遅いので、翌日朝とし、先祖の墓を探した。先祖代々の墓は、子供の頃の記憶と同じ「南無阿弥陀仏」の碑文が入った立派な墓ですぐわかったが、曾祖父文一郎や祖母の兄弟が眠っている墓は見つからなかった。Sさんによると、柏崎の寺(文一郎の息子が住職をしていた寺)に移ったとも聞いたので、既に移ってしまったのか?
 明日のアポの確認などを終え、食事の前に先祖が住んでいたであろう付近をぶらぶら歩くことにした。長岡は戊申、大戦時の長岡大空襲、先の大地震などで、殆ど城下町の趣をとどめていない。が、なんとなく、祖母やその家族、先祖が住んでいたところを歩き、同じ空を見て付近の空気を吸い、雰囲気を感じたかったのだ。この頃の新潟は夜はことに気温がさがり、寒かったが、シンとした清冽な空気を吸いながらの散歩は気持ち良かった。
 近所に郷土料理の居酒屋を見つけそこで食事をした。子供の頃に何とも思わず食べていた祖母の料理が実は長岡の郷土料理であったことを知り、再び祖母に感謝をした。祖母の料理は今はやりのスローフード、ロハスそのものであった。もっと祖母に料理を習っておけば良かったといつも悔やまれる。色々な人との出会い、それは先祖をきっかけとしたものであり、感動と感謝も一塩、郷土の日本酒を飲みすぎてしまった。酒飲みであった祖父、母も近くにいたのかもしれない。

2010月5月16日
長岡にて柏友会出席と柏崎の花栄寺へ
 出発前は、こんなに中身が濃くなり、忙しい旅行になるとは思ってもおらず、2泊3日の旅程で十分だと思っていたのだが、最終日の行程もゆっくりはしてられない。おりしも長岡は山本五十六祭りで大手通りは規制中。前日に記念館でお殿様に直々に柏友会にお誘いをいただいたので、10時半までに会場である悠久山に間に合わないといけない。
 
 9時:栄涼寺
 ここは歴代藩主、藩士の墓があるところだが、ネット上にもあった通り、閑散とした印象はいなめない。お墓参りはまずは墓掃除。スポンジや歯ぶらしを使ってお墓を洗う。きれいになったらお墓にお花とお線香、お菓子を添えて拝む。特別な時は、お寺に供養のお願いとしてお布施やお経代を払う。こちらのお寺にはもう20年も来ていないので、是非ともご住職に先祖供養の御経をあげていただきたく、お願いをしたいのだが、お寺には工事中なのかテントがかかっており、どちらが受付なのかわからず。そしたら、お墓を掃除しているご婦人をみかけ、聞いてみたらご住職の奥様であった。今回の訪問の趣旨を説明し、曾祖父・文一郎の墓の場所(あったのだ!)を教えていただいた。千葉の和尚さんに脅された通り無縁仏になっていたら子孫としてなんと罰当たりなことかと思っていたので、本当に良かった。
 本家と曾祖父母たちの墓を掃除、お花と線香をあげた。長年の無沙汰を謝った。船橋の実家で仏壇の掃除をしたときもそうだが、お墓の掃除をするのは実は気持が晴れることである。そして、眠っているご先祖を身近に感じ、なんとも言えない懐かしいような気分になった。文一郎の直系の子孫は私達だけなので、長年来なかったし、古い墓なので、汚れていて掃除に時間がかかってしまった。そしたら、ご住職の奥様がご親切に、本堂でお茶でも、とご本堂にご案内をしてくださった。柏友会の参加予定があり、時間がなくて残念であったが、先の地震のときは寺の被害も大きかったとのこと、が、古い墓は頑丈で倒れなかったこと、などのお話を伺った。後ろ髪を引かれる気持ちであったが、予定があるので、お経をあげていただけるようお願いをし、栄涼寺を後にした。時間がなく、河井継之助の墓によくお参りできなかったことが今思えば残念だ。

 10時半 蒼柴(あおし)神社社殿
 当日の柏友会の総会と直会(会食)が行われる悠久山にある蒼柴神社についた。人づきあいが苦手な弟は参加をせずに、悠久山公園や資料館をぶらぶらするとのことであった。久しぶりに観光旅行ができると思って同行したであろう彼は、結局、長岡藩&九里オタクの私に付き合わされ、思いのほかつまらなかったであろうから、一人でぶらぶらするのもよかろう。おりしも晴天であった。
 ちょうど、本日はじめて参加という埼玉から来ていた同年代の女性K子さんと知り合いになり、一緒に行動をすることにした。彼女も先祖が長岡藩士であり、歴史を探りたいということであった。柏友会の名前は、以前よりネットで知っていたが、今も活動しているのか失礼なところわからなかったし、また参加資格が先祖が長岡藩士の末裔の人に限る、また名誉会長が現在のお殿様ということで、排他的で敷居が高い会なのでは?と思っていた。が、現在は藩士の末裔でなくとも、歴史が好きな人であれば入会を認めてくれるそうだ。
 まずは、会の受付に行った。皆さん、既にハガキなどで申し込みを済ませ、会費を払い込み済の方ばかりで、今日突然やってきて、参加したい、また会に入会したいという私は、いかにもトンチンカンな気がした。が、受付で事情を話したところ、前日にお目にかかったお殿様が、既に私のことを受付の方にお話ししてくださっていたとこのことで、スムーズに入会、参加することができた。また、会の役員さん達も親切そうで安心した。
 最初に蒼柴神社の宮司さんより、式典がとり行われた。お殿様や幹部、来賓の方は前方に座られていた。お殿様の奥様はご令室と呼ぶにふさわしく、その辺の主婦とは全く異なり、おそらく華族のご出身ではないか、大変上品そうでお美しい佇まいの方であった。この日の参加者は70名近かったようで、準備した席がややたりないようであった。私とK子さんは皆さんに比べると若いし(他の方々は親の世代より上の方が大半であった)、新人なので後方に立っていた。そうしたら、かなり高齢の紳士が「座りなさい。」と席をすすめてくださる。「役員が座るわけにはいかない。」とおっしゃっていたが、かなりのご高齢であってもずっと立っている、さすが武士の末裔と感服した。式典では、宮司さんが神道の文言(無知なので失礼・・・)に交えて、戊辰戦争、大戦時の長岡の様子を語ってくれた。見ると、皆さんちゃんとした格好をなさっている。私はジーンズなどの軽装ではないものの、来年以降はもっとちゃんとした格好で来ようと反省された。男性の方は全員背広、女性の方はちょっとしたパーティーでも通用するような格好をなさっている方ばかりであった。
 その後、場所は神社脇の建物に移し、総会や講演会が行われた。そこで、新入会の紹介の時間が設けられ、私目も自己紹介をさせていただく光栄にあづかった。この日の新入会員は全員で7名。殆どの方は地元の名士の方々がほとんどで「やっと会に入れてもらえた。」とおっしゃっていたので、私のような若輩者が入ってよいものかと恐縮した。聞いていた通り、柏友会のメンバーは、地元の名士や官庁関係の方々など、そうそうたるメンバーのようであった。また、会津からの方々がご参加なさっていたのには、胸が熱くなった。この方達は、長岡藩士殉節顕彰会のメンバーとのことで、いつも柏友会に会津よりいらしているそうだ。戊申戦争後、長岡藩士とその家族達が長い列を作って会津に逃げて行き、また会津では若い男女の志士達が白虎隊として多く亡くなった。祖母は彼らがお互いに胸と胸とをを突き合って果てた、とよく話していた。
 直会(昼食をとりながらの懇親会)に移る。立派なお弁当と柏友会指定の日本酒が配られた。これで、3,500円の参加費は安い。時間がなく、また緊張していて弁当を少ししか食べられなかったので、帰りの新幹線で食べたほど、大きくて立派な弁当だった。恐れ多くも、お殿様が私のところにいらっしゃり、「せっかく海外から来てくれたので、これはちょうど前回の会報があるから。」と会報をくださった。記念に一緒に写真を撮らせていただいた。午後に柏崎に用事があったので、長居はできず、直会はほんの20分も出られなかったが、近くに座った方々は皆お優しそうな紳士ばかりで、九里のことも知っていた。隣の紳士はお酒までついでくださった。とても良い雰囲気で、同じ元藩士の末裔という帰属感もあってか、初めての参加なのにとても居心地がよかった。できれば、2次回までお伴をさせていただきたかったが、調査不足で午前中で終わるものとばかりと思っていた私は、午後の予定を入れてしまっていたのだ。今後は興味深いお話も聞けるかもしれず、次回は、1日を柏友会にあてることを決意し、席を辞した。


 15時半 柏崎・花栄寺
 長岡から柏崎は高速を利用すれば30-40分、花栄寺のある野田というところは、奥なので少し時間がかかる。こちらは、祖母の兄であった好信(こうしん)が生前、住職をしていたところで、私も子供の頃に数回訪れたことがある。小さかったので、よく覚えていないが、とても優しく、穏やかなニコニコしたおじさんであった。祖母もこの兄をよく慕っていたのであろう、我が母やその従兄たちを連れてよく遊びに行ったようだ。昔の写真を見ると、祖父母の代には、お互いの小林家ー九里家はよく交流していたようだった。これは、コスモポリタンだった祖父の気遣いもあったのだろうが、現代の世の中では私達夫婦を含めて、こういった親戚同士の交流が希薄になっているのではないか?
 祖母から聞いた話では、お堂近くの部屋に寝ていると、チーンと鐘の鳴る音がする。好信和尚が「どこどこのばあさん、今亡くなったな。今、本堂にやってきた。今に知らせの電話がなる。」というと、その方の死を知らせる電話がなったそうだ。同じことを初日に合った祖父の末弟のおじさんも言ってた。ここのお寺に養子に出した祖母の最初の子(母の兄)と、おじさんは同じ年であったので、よく一緒に遊びに来たそうだ。(が、高速道路がない時代に巻から柏崎は相当な距離だったろう)。そして、同じような体験をしたので、夜は怖くてたまらなかったそうだ。
 花栄寺の現在のご住職とは、会ったことがないと記憶する。好信和尚にお参りに行きたいが、どうしたものか、と思ってネットを探していたところ、こちらの副住職の方を知り、この方を頼って訪問させていただくことにした。県内の移動は1時間に1本しかない電車にせず、レンタカーにしてよかった。時間も短縮できるし、ナビがついているので便利であった。お寺の近くに行くと、そこは幼稚園入学前に訪れた頃と全く変わっていなかった。この一本道の出口にあるバス停で祖父母とバスを待っていたことを思い出した。
 メールでやり取りをさせていただいていた副住職様が出迎えてくれた。こちらに養子にいらした方で、お若い誠実そうな方であった。まずは本堂にご案内くださった。そこにご住職様がいらした。神々しい満面の笑みをたたえていらっしゃる。それだけで、大変ありがたい気持ちになった。後にお年をうかがったら82歳とのことであったが、背筋がしゃんとのび、お経をあげる声が立派で、正座も苦労無くなさっていた。本堂では、ありがたいことに般若心経をあげてくださった。副住職様のお声も大変立派であった。やっぱり、お寺で線香のに香りに包まれ、鐘の音やお経が流れる雰囲気というのは良いものだ、としみじみ思った。お経の後、好信和尚のご位牌とお写真にご案内くださった。家のアルバムにもあったお若い頃の和尚の写真であるが、祖母の兄であったこの和尚のことを良き思い出の中に尊敬の念と一緒にふと思い出すことがある私は、涙がでるほど懐かしい気持ちになった。祖母やこちらのお寺の養子に一時なっていた伯父も近くにいたのかもしれない。
 その後は、方丈部屋でお茶とお菓子をいただいて、昔のお話などをうかがった。ご住職さまが昔の写真だと見せてくれたのには、おそらく小学生くらいのご住職様(お稚児さんのように顔が整っている)、祖母の子供で我が伯父であった信栄(シンエイ、世俗に戻ってからはノブエイ)そしていかにも腕白小僧らしかった祖父の末弟のおじさんがうつっていた。皆、同年代であったので、よく遊んでいたのだろう。奇遇なことに私達が持ってきた古いアルバムの中にも同じ写真があった。
 伯父であった信栄は、祖母の最初の結婚で生まれたが、若くして旦那が死去。コブつきでは結婚できないと曾祖父から言われ、このお寺に養子にだされた。その後、祖母は私達の祖父と結婚した。私達の知る信栄は千葉県八千代市で税理士をしていたが、若いころ永平寺まで修行に行ったのに、お寺が嫌で逃げ出したそうだ。それにいたる経緯、その後、現在のご住職が呼び戻されお寺を継ぐことになったお話も伺い、さぞかしご苦労をなさったことだろうと思った。そのご苦労が慈愛に満ちお顔にあふれているのだろう。ご住職の先祖も長岡藩士、栂野家(トガノ)であった。祖母より「栂野」の名はよく聞いていたが、どういう関係だったかは忘れてしまっていた。ご住職のご生家だったとやっとここで繋がった。戊辰戦争後、大身の家の長男は殺されるという噂が流れ、当時の栂野家の長男「栂野道悟」(この名前にも聞き覚えがあった)はすぐに出家をしたそうだ。この方が、ご住職のおじい様で、元々九里と姻戚関係があったのかもしれないが、戦後に士族が没落し、祖母の兄である好信(長男)は出家、栂野道悟のお寺で修行をしたそうだ。
 副住職さまには女の子がいらして、このお嬢ちゃんが私達のためにクッキーを焼いてくれていた。ご住職様は海外に住んでいる私に大切な茶器をくださった。そして、子供の頃に一緒に育った故・信栄の残された奥さん(千葉にいる伯母)をとても気にかけていらした。「たまには、遊びに行ってあげなさい」と何度も言われ、千葉に帰ったら絶対おばさんを久しぶりに訪ねると心に誓った。お小さい頃は、伯父の信栄がかぼそかったご住職様をおぶって裏山に一緒に行ったとお話された。が、当時は頑丈であったであろう伯父は20年前に64歳で癌でなくなった。裏山にあるという好信和尚の墓に参りたかったが、まだ雪が残っているとのことで、(実際境内にも雪が残っていた)無理であった。 また、曾祖父・文一郎の墓はその息子の好信和尚の遺言でこちらのお寺に移すよう、言われているそうだが、地震などがあり、まだ長岡の栄涼寺にあるということだ。
 いずれにしても、九里の名前を継いでくれており、お墓を見て下さっている方々がいらしてほっとした。また、何十年ぶりに来た私達を暖かく出迎えてくださったご住職のご長命を願い、お寺を後にした。

 19時:新幹線にて東京へ
 何度となく通った長岡のインター。この近くの小嶋屋さんというお蕎麦屋さんがおいしいと継之助記念館のKさんに聞いていた私達は、帰る前にそばをいただいた。名物のへき蕎麦だ。
 本当はK先生から推薦のあった互尊文庫で色々調べたかったが、既に時間もなく次回にすることにした。新幹線に乗るべく長岡駅を目指すが、文庫による代わりにもう一度、先祖が眠る栄涼寺に行くことにした。お線香をあげて、「また来ます」と心に誓ったが、懐かしい親戚の家を去る時のような名残惜しさがある。「おみしゃんら、また来なされ。」とご先祖様が思ってくれたらよかった。
 新幹線の中では、柏友会でいただいたお弁当を食べつつ、お殿様からいただいた柏友会の会報を読んだり、今回の旅で得た情報を忘れないうちにノートに書き留めたりしていた。全体的に中身の濃い、とても良い旅行であった。亡くなった母、祖父母、当然だが会ったことがないご先祖を身近に感じた。そして、とても人に恵まれた旅行であったと、ありがたく思った。パラオにいると、、義理人情がない人が多く、ここ1年は泥棒に多くあい(それも怪しいのはアパートのオーナーの所の従業員、うちの従業員、近所の輩と近しい人達ばかり)、つい人間不信になりがちだ。情けをかけてくれる人も少なく、逆にかけようにも、心情的に裏切られることが多いので、つい今回の旅行で感じた、感謝の気持ち、気遣いを失いがちだ。
 今回、突然海外から押しかけていったにも関わらず、快く時間を割いてくださり、またお土産までご準備してくださっていたところばかりだった。本当にちゃんとした良き日本の人々に会うことができた。パラオの場合がアブノーマルなのだろう。この美しい日本人の美徳を忘れないよう、恩を受けたら受けっぱなしにならないよう、パラオで生活をしていきたいとつくづく思った。また、人は一人では生きていけない、人付き合い、親戚づきあいというのは大切なことだ。
            
最後に食べた新潟の味、名物へき蕎麦          現代のお殿様、現在の牧野家ご当主(牧野忠昌氏)と。
                           常在戦場は長岡藩の家訓と言ってもよい。(殿様書、私も購入した)
 

遠くにありて新潟を慕うる記